演者とキャラクターの乖離で生まれるロマン:『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』感想メモ

 不思議なもので、キャラクターの性別とその声を宿す声優の肉体的な性別は必ずしも一致するものではない。というのをアニメ大国ニッポンに生きる我々はごく当たり前に認識している。

 

 だって物心ついた時から見てたドラえもんのび太だってサザエさんのカツオだって女性が演じていることは自然と知っていたし、大人になってから熱心に見ていたエヴァのシンジやテニプリリョーマだって中学生の男子だが、女性が演じているんだな、と特に大きな違和感など感じたことなどなかった。

 無論、これは演じている声優たちの技術力・演技力の高さによるものであることは言うまでもないが、本書はそんな「少年役を演じる女性声優」の存在に焦点を当て、その変遷を紐解いている。

 

女性声優と声優人気

少年役を演じる女性声優の起源は、戦後すぐに放送されていたラジオドラマ『鐘の鳴る丘』まで遡ることになるのだが、当時は労働基準法で夜間に子役を使えないだとか、子供に複雑な芝居をさせるよりも成人したプロに任せた方が効率が良いとか合理的な理由による起用であった。ただ、『鉄腕アトム』が放送されていた60年代まではキャラクターとの乖離は許されず、声優は表に出てはいけない影のものであったという。

それから、声優の存在がキャラクターと切り離されて認識されるようになるのは、70年代ごろ。当時、ファンコミュニティが活発になったことや78年に創刊された「アニメージュ」を代表としたアニメ雑誌が今日まで続く声優人気に大きな影響を与えている。この時から、キャラクターの魅力ではなく、声優本人の人格の想起が人気の理由の一つになっていることが、当時の「アニメージュ」が行ったファン投票から分かるのだという。

このことから、声優人気の黎明期から、人気キャラクターを演じていることに加えて、それを演じている人がどんな人か、という眼差しがファンの中に存在していたといえる。

キャラクター人気と声優本人への興味という二つの眼差しが向けられるようになってから、少年役を演じる女性声優の存在感は、90年代までどんどん強まっていた。

 

「ずれ」とどう向き合うのか

声優に対する視聴者の考え方は2つに分けることができる。一つは、「キャラクターと演者は一致してほしい」というもので、もう一つは「乖離を認識しながらも、その演技を楽しむ」というものだ。そして、少年役を演じる女性声優は後者の中核を担っていることは言うまでもない。

2010年頃までは、少年漫画原作の作品を中心に少年主人公には女性が配役されており、この乖離は受容されてきたものの、近年は、前者のようにキャラクターとの同一性が求められる傾向にあるといえる。これは、あらゆる作品でライブなどのリアルイベントへの多層的展開が必須となってきたという商業的な理由が大きいのだと予測できるが、私は、演者とキャラクターとの乖離で生まれるロマンの可能性を今後も信じていきたいと思う。

例えば、1997年のテレビアニメ『少女革命ウテナ』において頭身が高く、男装している主人公ウテナに、朗らかでトーンの高い川上とも子をキャスティングしたことで物語の重層さを高めたように、乖離にはロマンがある。

絵と声、演出と編集、プロモーション、そしてそれに対する視聴者の受容の掛け算は無限だ。「少年を演じる女性声優」は、そんな掛け算の中で生まれる「ずれ」に新しい魅力を付加し続けて、日本のメディア作品の独自性を高めて続けているのではないだろうか。

 

 

以下の本の読書記録でした。