原点回帰と新規性:ハートキャッチプリキュア感想メモ①

10年遅いが、『ハートキャッチプリキュア!』をあらゆるプリキュアファンからおすすめされるので感想を綴っていこうと思う。

7話まで視聴し、とりあえず現時点での感じたことを纏めていくこととする。

 

人物設定に詰め込まれた意外性

本作は、主要人物の設定を非常にシンプルな方法で意外なものにしているのだろう。それは、これまでのシリーズや類似作品における定番の性格やステータス設定の正反対をいくという方法だ。

まず、主人公でピンクキュアのキュアブロッサム/花咲つぼみは、引っ込み思案で真面目、そして変身した際の戦闘力は「史上最弱プリキュア」とまで言われるキャラクターだ。これは、それまでのシリーズ『yes!プリキュア5』の夢原のぞみや『フレッシュプリキュア!』の桃園ラブのような、明るく元気でドジな少女が、変身すればたちまち力強く敵に立ち向かうというこれまでのピンクキュア像とは完全に真逆の物である。

そもそも、プリキュアという作品は「女の子だって戦いたい」というコンセプトの元、可愛らしい女の子たちが自ら敵に立ち向かっていくというものであり、その主人公が、従来の可憐で控えめで守られるヒロイン像の真逆をいく、元気で強いイメージを強く押し出したものであったことは当然のことである。

 

ハートキャッチプリキュア」では、元々意外性を狙って形成されてきたこれまでの設定を覆して、大人しくて弱いヒロインを据える代わりに、相棒役であり今後最高の親友になっていくのであろうキュアマリン/来海えりかが、これまでのプリキュアシリーズの主人公の特徴を引き継ぎ「元気でおバカだけど変身すると強い」というポジションを担っている。

知性やクールのイメージが強いブルー担当がこのような位置付けとなっていることも相まって、初代である「ふたりはプリキュア」の主人公であるなぎさとほのかのキャラクター性をそのまま交換した、ある意味原点回帰的な作品であるともいえる。

 

このようにして、本作の序盤の展開としては、これまでのお約束的な設定を継承しつつもその出力方法を変更することで、シリーズに目新しさを与え、2010年時点において、女の子のためのコンテンツとしてまた次のステージへ進んだのだろうと感じた。

 

さて、まだまだ長いストーリーの4分の1。しばらくは、つぼみとえりかという2人をしっかり描いていくのだろうなという感じなので、それについても非常に楽しみではあるが、おそらくプリキュア史に大きな変革をもたらしたのではないかと予想されるキャラクター、キュアサンシャイン(になる)男装女子・明堂院いつきがそのキャラクターの輪郭を示し出してきたところである。彼女の今後の展開にも注目していきたい。

また視聴が一区切りついたら感想を綴っていこうと思う。

 

ハートキャッチプリキュア!【1】 [DVD]

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  • 発売日: 2010/06/16
  • メディア: DVD
 

 

 

 

演者とキャラクターの乖離で生まれるロマン:『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』感想メモ

 不思議なもので、キャラクターの性別とその声を宿す声優の肉体的な性別は必ずしも一致するものではない。というのをアニメ大国ニッポンに生きる我々はごく当たり前に認識している。

 

 だって物心ついた時から見てたドラえもんのび太だってサザエさんのカツオだって女性が演じていることは自然と知っていたし、大人になってから熱心に見ていたエヴァのシンジやテニプリリョーマだって中学生の男子だが、女性が演じているんだな、と特に大きな違和感など感じたことなどなかった。

 無論、これは演じている声優たちの技術力・演技力の高さによるものであることは言うまでもないが、本書はそんな「少年役を演じる女性声優」の存在に焦点を当て、その変遷を紐解いている。

 

女性声優と声優人気

少年役を演じる女性声優の起源は、戦後すぐに放送されていたラジオドラマ『鐘の鳴る丘』まで遡ることになるのだが、当時は労働基準法で夜間に子役を使えないだとか、子供に複雑な芝居をさせるよりも成人したプロに任せた方が効率が良いとか合理的な理由による起用であった。ただ、『鉄腕アトム』が放送されていた60年代まではキャラクターとの乖離は許されず、声優は表に出てはいけない影のものであったという。

それから、声優の存在がキャラクターと切り離されて認識されるようになるのは、70年代ごろ。当時、ファンコミュニティが活発になったことや78年に創刊された「アニメージュ」を代表としたアニメ雑誌が今日まで続く声優人気に大きな影響を与えている。この時から、キャラクターの魅力ではなく、声優本人の人格の想起が人気の理由の一つになっていることが、当時の「アニメージュ」が行ったファン投票から分かるのだという。

このことから、声優人気の黎明期から、人気キャラクターを演じていることに加えて、それを演じている人がどんな人か、という眼差しがファンの中に存在していたといえる。

キャラクター人気と声優本人への興味という二つの眼差しが向けられるようになってから、少年役を演じる女性声優の存在感は、90年代までどんどん強まっていた。

 

「ずれ」とどう向き合うのか

声優に対する視聴者の考え方は2つに分けることができる。一つは、「キャラクターと演者は一致してほしい」というもので、もう一つは「乖離を認識しながらも、その演技を楽しむ」というものだ。そして、少年役を演じる女性声優は後者の中核を担っていることは言うまでもない。

2010年頃までは、少年漫画原作の作品を中心に少年主人公には女性が配役されており、この乖離は受容されてきたものの、近年は、前者のようにキャラクターとの同一性が求められる傾向にあるといえる。これは、あらゆる作品でライブなどのリアルイベントへの多層的展開が必須となってきたという商業的な理由が大きいのだと予測できるが、私は、演者とキャラクターとの乖離で生まれるロマンの可能性を今後も信じていきたいと思う。

例えば、1997年のテレビアニメ『少女革命ウテナ』において頭身が高く、男装している主人公ウテナに、朗らかでトーンの高い川上とも子をキャスティングしたことで物語の重層さを高めたように、乖離にはロマンがある。

絵と声、演出と編集、プロモーション、そしてそれに対する視聴者の受容の掛け算は無限だ。「少年を演じる女性声優」は、そんな掛け算の中で生まれる「ずれ」に新しい魅力を付加し続けて、日本のメディア作品の独自性を高めて続けているのではないだろうか。

 

 

以下の本の読書記録でした。 

 

「自分を大切にする」を見つめ直す:ヒーリングっど・プリキュアのラストバトル感想メモ

私たちは社会に揉まれていく中で、知らぬ間に「自己犠牲」を自分にも他人にも強いていたのではないか?

そんな感じの問いをガツンと提示されたような気がしたヒープリのラストバトル。プリキュアシリーズが描いてきた「客観的に見た個人の自立」や「互いの個性を認め合うことで生まれる力」などのイメージ(個人の見解です)とは異なるアプローチで、少女たちのヒーローは、また新たな時代を切り拓いていくのだろう。

 

まず、注目したいのは、ネットでも賛否が分かれた42話にて、主人公キュアグレース/花寺のどかが宿敵ダルイゼンを「助けない」選択をしたことだ。

敵と和解したり、はたまた終盤で共闘するような展開も少なくない本シリーズだが、今回の敵であるビョーゲンズはのどか達人間と動植物の生存を脅かす完全な悪だ。このことはは、彼らが「病原」の名を関している通り、現実世界で我々人間にとって病原菌は排除すべきものであることから明白であろう。

人間の都合で見捨てることは残酷かもしれないが、例えば、いじめの現場を想定すると個人的には納得がいく。自分がいじめを受けていて、いじめの実行者が自分の都合が悪くなったから助けてくれと言われた時に無条件で助けることはそうないだろう。まずは自分の行った罪を認識して心を改めて償いをする、つまり「浄化」という手順を踏むことが筋ではないか。

この物語は敵を「倒す」のではなく「浄化する」ということを一貫して貫いていることが、そもそも敵を助けると言うことは決してないのだと言うことを暗に示しているともとれるだろう。

 

そして戦いのクライマックス、44話。

「生きることはたたかいだ」というセリフ。主人公がラスボスの主張を否定しないという展開も相まって、非常に印象に残るものとなったが、キングビョーゲンとのどかでは、「たたかい」の解釈が異なるのではないかと思う。

キングビョーゲンのはきっと「生きることは戦いだ」ということなのだと思う。「戦い」は勝ち負けや優劣を争うものであり、生存競争という戦争でいかに他を負かすか、優位な存在になるかということに重きを置いている。まるで某スプラ何某の領土争いのように赤黒い色で大地を塗り替えていくことが彼らの目的であり生きるための手段だ。

対して、のどかは「生きることは闘いだ」と言っているのだろう。「闘い」とは困難に打ち勝とうとすること、「自分との闘い」等で使用される漢字だ。このことを、のどかはキングビョーゲンに対して闘い続ける理由として「負けないために」と主張することで明示している。

 

自分を大切にするために、自分らしくあるために、とにかく自分自身のために人は戦い続けなくてはいけない。しかしながらこの思考は時に、利己的だとか傲慢だとかいう理由で否定されることもある。だから、「自分のために、自分を大切にする」というようなことは簡単には言い出せないし、人のために自分を犠牲にすることに価値を見出しがちになっている。

けれども、自分自身を救うことができなければ、他人を救うことなどできないのだ。

コロナ禍の今、他人を思いやることも大切だけれど、まずは自分の心身の健康を守らないと意味がない。昨日夜に起きた東北から関東にかけての大きな地震、まずは身の安全を守れなければ、簡単に明日は無くなってしまうのだと再認識させられた。

 

多様性を認めよう、理解していこうという今、このことはもちろん喜ばしいことであるのは間違いないが、そんな社会の中で忘れがちな、自分のために懸命に人生を生きていく、という根源的なものを思い出させてくれた、ヒープリはこんなご時世だからこそ一層突き刺さるメッセージを提示してくれた素晴らしい作品だと思いました。

来週の最終話も楽しみです。